私は、テレビっ子である。生まれた時から我が家には、白黒テレビがあったそうだ。
テレビからいろいろなものを見せられ、聞かされ、教えられ、成長させられてきたように思う。なので私は、テレビのある部屋にいる時は、だいたいテレビは付けっ放しにしている。
ただ、真剣に見入っている時間は少なく、大抵は垂れ流しているだけである。
テレビやラジオなどの古いメディは、一方通行と言われる。
テレビやラジオ、ブロードキャストというものは、常にこっちの要望とは関わりなく、情報が勝手に垂れ流れてくる。自分に必要な情報を受け取る手段としては、極めて不効率である。
選択肢は、チャンネルを変えることぐらいだが、どこのチャンネルに合わせても、向こうの都合で勝手に垂れ流れてくることに変わりはない。それに民放は、申し合わせたように、同じ時間に同じような番組しかやっていない。しかも視聴率を稼ぐため、世の中の平均的な所にターゲットがあるので、マニアックな深い情報というものは、ほとんど無い。
また、こちらの状態も一定ではなく、食事中なのか?くつろいでいるのか?ぼーっとしているのか?仕事中か?によって、その情報の受け取り状態は、常に変化している。
情報を得る手段としては、極めて効率の悪い、一方通行のメディアである。
しかし、その利点は、その、向こうの都合で勝手にやってくる、一方通行、という所にある。
垂れ流している最中、偶然に、時折、自分のアンテナに引っかかってくるものと出会えることがある。自分の意思とは関係なく、自分の興味に引っかかるものに、偶然出会える。効率はとても悪いのだが・・・。
それは、コロナのニュースかもしれないし、CMに出ているアイドルの笑顔かもしれないし、バラエティーのバックで流れている、ちょっとしたBGMかもしれないし、世界の絶景かもしれない。
いつの間にか番組が変わっていて始まっていたドキュメンタリーのナレーションの一言に引っかかり、最後は食い入るように画面から目が離せなくなっている自分を見つけることも稀にある。
この偶然さが、思わぬ自分を発見することや、まったく知らなかった世界への入り口になったりすることがある。
時にはそういうものが、人生や、価値観や、正義感や、美意識などを大きく変えてしまうことすらあったように思う。
一方、昨今のデジタルツールでのネット体験は、双方向と言われる。最初にアクションを起こすのは、こちらである。
リンクをクリック、検索窓に文字を打ち込む、アプリを立ち上げる、など、とりあえずは自分の意思で行動を起こさねばならない。
テレビも、電源を入れるという操作は必要であるが、ネットへのアクセスでは、自分と無関係なもの、まったく興味のなかったもの、存在さえ知らなかったものに出会える確率が、ぐっと落ちるような気がする。
これは、どちらが良い悪いの話ではなく、性質の違いでそれぞれ得るものが違うということだと思われる。
テレビをつけている間でも、明日の天気が知りたい、今日のコロナ患者の新規感染者数が知りたい、と目指す情報がある場合は、迷わずネットを利用する。双方向、一方通行、どちらにも利点がある。
それゆえ私は、テレビをつけっぱなしにしながら、スマホやパソコンを同時に使う生活となる。
しかしながら、神経を休ませるためには、どちらも遮断し、静寂の中に身を置くこともまた、必要であるようだ。
2021.05.15
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ほんのちょっと先の未来に、ほんのちょっとした約束があるだけで、現在の時間がちょっとだけ光り輝きだすから不思議だ。
それを「希望」とか「幸せ』と呼ぶのだろうか?
2016.04.13
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外界はすべてが外部記憶装置?
人間の脳の外部記憶装置として、パソコンや携帯電話が機能している事は、すでに自明の事だが、他にも、自分はたくさんの脳の外部記憶装置に囲まれて生きている事を実感する事がある。
先日、テーブルの上で水をこぼしマウスを濡らしてしまい、一時的に使えなくなったが、部屋の角の、もう何年も触っていないホコリの積もった一角から、ほぼ無意識に代替となるマウスをつかみ出し、すぐに穴埋めが出来た。
おそらく他人から見ると、単に片付けられずにおいてあるホコリのたかったガラクタ置き場なのだろうが、私の脳にとっては「そこに代わりとなるマウスがある」というタグのようなものがあって、即座に必要なものを引っ張りだせた訳である。つまり、私の普段過ごしている部屋は、私にとっては外部記憶装置の一つなのである。
真っ暗な部屋に夜中に帰って来ても、ほぼ一発で壁の電灯のスイッチを付けることができるのも、生活習慣によって脳の中に確立された記憶のおかげである。乱雑にものが散乱している仕事場のテーブルや棚も、それはみな私の脳の延長にあり、他人にちょっと配置を変えられただけで、脳のタグは混乱を来たし、新たな記憶の再構築が必要となる。
そう思うと、脳の外部記憶装置は、部屋や家だけにとどまらない。
街中で新しい更地を見つけて、「あれ、ここには前、何があったんだっけ?」と思い出せないのは、自分の意図しない所で自分の記憶装置が書き換えられた結果である。
近所のコンビニ、バス停、交差点の信号、横断歩道、商店街、さらには友人知人、社会、地球、宇宙・・・、他の人の脳と共有している部分も含め、それらはみな私の脳の延長線上にあるように感じられる。この世もあの世も、すべてが私の外部記憶装置のようである。
自分一人で管理、把握出来る外部記憶装置と、他人と共有となる外部記憶装置の境目は、なかなか正確には線引きが出来ない。自分の脳の延長線上では、「こうあるはず」という事が現実には違っている場合に、多々出くわす。
外部記憶装置を他人と共有しながらうまく運営していく事、それが社会性があると言う事なのだろう。
2014.11.16
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私は、人の成長していゆく様、姿に心ときめきます。好きな映画なども、たいていそういったものを描いてあるものだったりします。
人が子供を愛おしく思うのは、成長するスピードが速いため、それが誰の目にもはっきりと解るからではないだろうか?などと思ったりする。
そして、ほぼ半世紀を生きてしまった今の自分も、どんなに鈍足であっても良いから、死ぬまで成長を続ける事を理想としたいと思っている。ただ、本当に成長できているのか?その判断はつきにくく、不安と言えば、それが不安でもある。
2010.08.01
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生と死は表裏一体。生があるから死を恐れ、死があるから生が輝く・・・と、理屈ではわかっていても、健康な日常の中にいると、死を意識しながら生きる事は難しい。
ここ数ヶ月ほど、確定した死に向かって限られた時間を生きた女性と接する機会を得ました。その人は、体も自力では動かせず、口から食物をとる事も出来ず、日に日に悪化する生理的な苦痛に耐えながら、ただただベッドの上に横たわり、避けられないその日を待つ生活・・・。その辛さは私なんぞの想像をはるかに超えたものだったことでしょう。私にできることは、1日のうち数回、彼女が覚醒していてしかも比較的苦痛が穏やかな時に、なんてことはないつまらない会話をする事くらいしか無い。
彼女の遺伝子の伝授者である私は、身近な人の死というものに直面する事は始めて。しかもなかなか体験できることでもなさそうな、死に向かって限られた時間を過ごすという、貴重な体験。私にも人の子らしい、情緒的やら感傷的やら、何かしらの激しい感情が巻き起こるのだろうか?などと、不謹慎ながらもそんな期待をしていた自分もおりました。
その間、彼女と接しながら色々と考えをめぐらせたのは、やはり「生命」とはなんなのか?ということ。
数万年単位で見れば、人類という種がつないでいる遺伝子のホンの一瞬を担うだけの一固体。宇宙単位の時間で見れば、一瞬というにも満たないほどで存在すらないかと疑われるほどの短い時間。
ただ命の一生という単位で見ると、単なる遺伝子の運び屋以上の何かがあるように感じるし、遺伝子の自己複製能力だけでは生命の定義には拙速過ぎるように思われる。
体の各所で機能不全が次々と起こり、体の一部は壊死し始めてもなお、心臓は動き呼吸をし、言葉もうまく出せない状態になっても、何かを訴えようと口を動かし、あたりに視線を回す彼女。そうまでしてこの固体を維持しようと頑張っている力の本質は何なのだろうか?
そこには、熱力学の第二法則に逆らって、エントロピーを低く保ち複雑な構造物を維持しようっとする、なにがしかの強力な秩序の力を感じざるを得ない感覚・・・。その秩序の度合いが、ある"しきい値"を越えるかどうかが、その個体にとっての生と死の境目なのだろうか?医学的にはおそらくそうなのだろう。
そして、そのしきい値を超えない様に秩序を保とうとする強力な力こそが、生命の本質なのだろうか?その力を言語で明確に表す事は出来そうも無いが・・・。
彼女は人類という種の中の一個体として、責務を果たしており、彼女の遺伝子の半分は確実に私の中で生きている。どうも、私にはその責務は今のところ果たせそうも無いが、私にも彼女と同じ命の力が宿っているはず。ならば、私のその力がそのしきい値を超えるまで、精一杯生きる事が彼女の人生に報いる事だろう。
母の人生に感謝と犒いを・・・。
2010.01.18
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水金地火木土天・・・・と習ったのは中学だっただろうか?でっかい太陽を中心に惑星が回っているという、太陽系のモデルですね。そして、大きな原子核の周りを電子が回っているという原子のモデル。この二つのあまりに相似な形状に、ひょっとしたら私たちが住んでいるこの地球とは、単なる一つの電子に過ぎないのではないだろうか・・・?という妄想を膨らませたのは、私だけではないと思っているのですが・・・・。そして、齢半世紀に届こうかという歳になってもまだ私は、この妄想を払拭できないばかりか、かえって確信めいたものまで生まれてきつつあります。(^_^;)。
人間から見てどんどん巨視的な方向へ、地球、太陽系、銀河、宇宙と尺度を大きくしてそれを探索する事と、微視的な方向へ、分子、原子、素粒子と尺度を小さくする方向へと探求する事。この二つの事は実はその先ではつながっていて、メビウスの輪のごとく終わる事無くまた同じ所に帰ってくるのではないだろうか?昔からそんな考えを持っていましたが、宇宙の誕生の説明をしようとすると結局素粒子の話しになってしまう現状を思うと、私の妄想もあながち的外れではないのでは?と、ますます強く思ってしまいます。
そして最近読んだ本、「ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学」によると、動物の持っている時間はその体重の 1/4乗に比例するらしい。その事実を知りますます私の妄想は広がりました。
物理でいう時間は、一定のものだが、それはあくまでも人間の考えた尺度でしかない。生命にとっての時間はサイズによってその流れ方が違う。象の一生もネズミの一生も物理的な時間では大きな違いがあるが、それぞれの動物にとっては、同じ長さである。これを動物だけではなく、素粒子から宇宙まで広げたらどうだろう?一人の人間が宇宙の誕生から終焉までを見届けるのは、物理的時間では不可能であるが、宇宙にとって流れている時間はそれが何十億年という単位であろうとも、一人の人間の一生とほぼ等価であるとしたら・・・・。
水道の蛇口を締めるとき、一滴の水が蛇口から流しに落ちる。その時間は数分の1秒くらいか?。でも原子や素粒子レベルではその時間は、宇宙の一生にも匹敵するのではないだろうか?一滴の水が落ちる間の、どこかの原子のどこかの電子の上では生命の誕生から人類の繁栄、そして宇宙の滅亡までの時間が流れているのではないだろうか?それと同じ様に私の今いる地球という惑星は、すごい大きな尺度から見ると、蛇口から垂れる一滴の水の中の一つの電子なのでは無いだろうか?
パラレルワールドという考え方があったが、それは、大きさの尺度が極端に変わって時間の流れが方が違う世界が存在する事ではないだろうか?そして最初に言った様にその大きさの尺度はメビウスの輪になっていて、どんどん尺度を替えてもいつの間にかもとの所に戻ってしまう終わりなき世界になっているのではないだろうか?
ま、何の根拠も無い勝手な個人的妄想ですが、でもけっこうまじめに思っています。変?(^_^;)
2009.10.25
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人類という種は、「言語」という能力で、細やかな意思を伝え、情報を伝え、記録を残すことが出来る点で、他の動物と大きく違い、それ故に現在の繁栄がある・・・、と言える。
しかし、あまりに「言語能力」が有用であるがため、それに頼りすぎてはいないか?いや、その魔力のために、他の能力に気づかず、「言語」以外の能力を使う機会を逃してはいないか?
そんな事をこのごろ真剣に意識する様になったのは、先日の上原ひろみのライブを見たためであります。
どんなにコミュニケーションツールが発達しようとも、他人の感情や感覚をそのまま、"自分の感覚"(自分の神経系から受ける刺激?)として認知する事は、今のところ不可能とされていますね。他人の意識を理解しようとする時、過去の記憶や経験、その人の状況その他の情報を頭の中で整理し組み立て予想を立てて想像する。それはほとんどが頭の中で言語を使って行っている行動の様に思います。
しかし、耳の鼓膜を震わせる空気の振動と、網膜に受ける電磁波の刺激。覚醒している限り常に受けているいつもの刺激と物理的には何ら変わりないはずなのに、その時、彼女が弾くピアノの音と弾いている姿を見ていただけで、私の脳の中ではあきらかに他人の感情?感覚?がそのまま自分の感覚であるかの様に感じられ、しかしそれは自分の意識から生まれたものではなくあきらかにステージ上の彼女のものであり、それゆえ自分の思い通りにはならず、勝手に自分の中を駆け回るのだが、でも感覚としては自分のものとして知覚されているようで、そしてそれはけっして不快ではなくむしろ心地よい・・・。
単なる幻覚だと言ってしまえば、そうなのかもしれないが・・。そこにはあきらかに言語は存在しなかった。なのでその感覚をこうして言語で表現しようとしても徒労にしかならないのだが・・・。言語を介さないからこそ出来た、一つの奇跡の様な”認知”であり、意識の伝達だったのでは無いだろうか?と、バカな事に言語で解釈しようとしています。
思えば、私の興味のわくものは、写真にしろ音楽にしろ、皆、言語能力を必要としないものでした。というより私は言語能力に劣っている方だという自覚が昔からありました。子供の頃から、文字を読む事と書く事が大嫌いで、単なる情報伝達のための記号以上の意味を言語に持つ事が、生まれてこのかた無かった様に思います。今はこのようにホームページやらブログやらに文章を書いていますが、自分で文章を作る様になったのは、パソコンを手に入れた、30代半ばになってからでした。筆記用具から開放された事でちょっと足かせが外れたのと、長く生きたため言語文化に毒されたためでしょう。
音楽を積極的に意識してそれに覚醒した、14歳の頃の私。私を目覚めさせてくれた音楽は、異国のもので、歌も入ってはいるものの理解できない異国の言葉。私にとってはそれは単に声という楽器の音色変化としてしか認知されなかった。それゆえ、そこには先日の上原ひろみのライブで感じた様な感覚が確かにあったはず。大人になり、曲がりなりにも音楽に関わる仕事をする事で、忘れかけていたのではないか?と、自分にあらためて問い直す。"Don't think. Feel!"
とりあえずこの歳まで、自分が唄歌いではなく、ギター弾きでいた事に、希望と可能性と感謝を!
2009.10.02
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半分、ある本の受け売りですが・・・・
「悩む事と考える事は違う」
当たり前の様に思える言葉ですが、ちゃんとわかっているだろうか?
実際には、考える事を意識的 or 無意識的に放棄しているのに、悩んでいる事で考えている気になってはいないだろうか?
考えるとは、自分の立てた問いに対して明確に向き合う事である。そのためには問いそのものを吟味する事から始めなければならない。
考えている人には、手を貸す事も、ともに考える事も出来るが、考えている振りをして悩んでいるだけの人には、何もしてあげられない・・・。たとえそれが大切な人であっても・・・・・。
2009.06.06
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イチローに言われちゃうのはちょっと癪ですが・・・(^_^;)。
「NTT 東日本のCM」
http://www.ntt-east.co.jp/gallery/pop_cm/cm_cp_0009_15s_512k.html
まったくその通り!私が意識の中に置いておきたい言葉ですなぁ。
私も、これを読んでいる貴方も、毎日同じ事を繰り返して未来を作っています。毎日取引先で頭を下げて、毎日工場のラインに立ち続け、毎日接客をし、毎日ディスプレイにかじりつき、未来を作っているはずです。
ただ、人間、同じ事の繰り返しには鈍感になり、それに飽きたり苦痛を感じたりし、目の前の楽しそうなイベントや快楽に興味をそそられたりします。それもけっしてそう悪い事ではないでしょう・・けど・・。
自分が繰り返している同じ毎日は、実はイチローなんかよりもっと素敵な未来を作っているんだ!と自分を信じれるかどうか?
その意識の持ち方ひとつで、自分の人生は意味が変わってくる・・、と考えています。
「どうしてイチローは同じ毎日を繰り返しているのに、未来を作れるんだろう・・・』
いいえ、誰も皆、同じ毎日を繰り返して素敵な未来を作っているんです!
2008.05.17
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「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」
記憶が、現在の自分の自我、意識を築くためその都度再構築されるものだとするなら、それは当然のとこであり、この脳の働きによって人は前に進んで生きてゆける。しかし脳の働きはそれだけではない。「熱さ」を忘れたとしても、熱さを感じた事を記憶し、2度目からはその熱さを回避する知恵を付けるというのも、記憶の恩恵であろう。
とはいっても、同じ過ちを繰り返してしまう事はよくある事で、かなりの覚悟を持って肝に銘じておかないと、同じ熱さに再び遭遇する事となる。だから本当に大切だと思う事は、常に意識の中に置いておかなければならない。置いておきたいと思っている。
記憶という知恵を使って、同じ過ちをさける・・・・それが、成長と呼ばれるものなのか?保守化と呼ばれるものなのか?それはケースバケース・・・というより、その区別は出来ないように思われる・・・・・。
2009.04.29
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正義と美学の境目が、最近歪んでおります。まぁ別に明確に分ける必要も無い事なのかもしれないけれど・・・。
自分の感情や周りの状況がどうあれ、正しいと信じ、実行せねばならぬもの・・・=正義。
こう在りたいという自分のビジョンに従って自分を律するもの・・=美学。
そんな考えを持っていましたが、どちらもそれを支えるのは自分の意識の力。さて、自分の意識を形作るものとは何か? その根拠とは何か?
趣味嗜好、私利私欲、単なる遺伝的要因、常識、義理、人情・・・etc.. そんなものではないで欲しい、と思うと同時に、それらを完全には否定できないでいる自分がいます。それでもなお日々24時間、決断と選択をして行く事が生きてゆく事。それは考えれば考えるほど、恐ろしく、生きる事を不安にさせる要因ですが、せっかく大きな脳を持った生命体としてこの世に存在できたのだから、せいぜい考えを限界まで巡らして、生きてゆきたいのですが・・・。時々難しく感じます。
2009.03.07
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答えは日常の中にこそあり。
環境の変化や特別なイベントにそれを求めるのは・・・・何度も同じ事の繰り返し・・・・頭悪すぎないかい?。(^_^;)。
2009.03.03
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おむつが濡れた赤ん坊は泣く。泣いていれば母親なりその子を育てている大人がちゃんと世話をしてくれる。でも大人で自分の排泄物で糞まみれになっている場合(あくまで比喩です)は、周りの人間はどうする事も出来ない。せいぜい赤ん坊をあやすように、その場しのぎの言葉をかけてやる事ぐらいしか無い。始末の仕方をある程度教えてはあげられるが、結局、自分の排泄物の片付け方は人それぞれ・・・。自分でその方法を見つけない限り、赤ん坊のように泣く事も出来ず、心の SOS が体の不調になって現れたり・・・。子供のような大人は大好きだが、大人の振りをした赤ん坊は・・・・まぁそれはそれで可愛いのだが・・・(~_~;)。
2009.02.21
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自分の信じる正義を貫く事はむずかしい。自分の意志の弱さという理由もあるが、大半は自分の正義が他人の正義と一致しない事が多いからである。自分が正しいと思ってしている事の根拠を説明してしまうとその行為が無駄になってしまう、というジレンマの経験もある。
結局、100人いれば100通りの正義がある、という現実を受け止めなければならないのだろう。そして、正義と思っている事が実は個人的な美学なのではないか?と感じる事もしばしばある。自分の中では、正義と美学の明確な線引きが出来ていない。それは切り離せないものなのか?切り離せたとしたらどちらを優先させるべきなのか?ひょっとしたら同義語なのか?正義と美学の元となるものが自分の中にはあるのか?半世紀近く生きても、未だわからない。
2009.2.1
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人は変われるのか?
遺伝子がデジタルデータであり、それは世代を超える時にしか変化しないという事実を考えると、人は、その根本に置いては変わることが出来ない・・・、と思われます。しかし人の意識は、遺伝子の束縛を離れ、独自の自己複製子によって進化できるとすれば、遺伝的影響とせめぎあいながらも、変わる事が出来るかもしれない。では、自分を変えたいと思う時、どうすれば良いのか?
自分の過去を振り返ってみると、いくつかのターニングポイントがあった事に気づく。一つは中学2年の時。この時の価値観の変容によって、今の私の根本はほとんど出来ているような気がする。いわば自我の確立に相当するのだろうか?。二つ目は今の仕事を始めた時。この時は自分の生き方と実社会との折り合いを付け、実践的な”生”を考え実践する道を選んだ。三つ目は、厄年で鬱病になった時。”死”を意識する事により、自分の周りにいる他の人に対する意識の変化と、人生の残り時間をどう幸福に過ごすか?という新たな価値観を獲得した。
最初の十代の時のターニングポイントの影響は大きく、その後あまり変化は見られないような気がするが、その後の2つについては、その後ある程度の変容が見られる。二つ目の二十代後半の時の考え方や思いは、三つ目の病気によって起動修正され、諦めたものを再度取り戻そうという変化を見せた。三つ目の病気のときの影響は、”喉もと過ぎれば熱さ忘れる”ではないが、健康を取り戻すにつれややそれ以前の感覚に戻っている感じもある(また性格が悪くなっております(^_^;))。
最初の自我の確立(?たぶん)はやはり大きく、それをすっかりひっくり返すような事は今まではないし、これからもないような気がする。何よりそれ以来その価値観から変わりたいと願う事がないので、そこは変わらないのだろう。まず、心から願わなければ、人は変われないし変わらないと言えそうである。
変化のとっかかりはいつも”-何かしらの外的な出来事-”(病気もまた自分の意識にとっては外的な出来事である)に反応する事によって起きてきたように思う。ただ、とっかかりは外的な出来事であるが、それをちゃんと外圧として認識し、考え、自分で結論を出す、という事によって変化を獲得してきた様に思う。しかしひょっとしたら、大切な外的出来事と気づかずに見逃してしまった出来事は意外と多いのかもしれない。いや、むしろ意外とどころか、自分を変えるとっかかりは実は回りに満ちあふれているのかもしれない?
そう思うと、ちゃんと出来事を受け止めているか?その都度ちゃんと自分で考えて答えを出しているか?鈍感になって見過ごしていないか?と、ちょっと不安に感じ自分に問いかける。そこにだけはとりあえず、死ぬまで敏感で居続ける事。そうありたいと願うし、それが”人は変われるのか?”という事の必要条件だと思う。
そしてまた、自分を変える”外的な出来事”が周りに満ちあふれているかもしれない?と考えると、実は、ターニングポイントになったと思っている象徴的な”外的な出来事”は、実は単なるきっかけでしかなく、そこに至るまで少しずつ、自分の意識は外的な出来事に反応していて、日々の積み重ねの結果、自分を意識的に変えていたのかもしれない、とも思える。
一夜にして意識的に自分を変える事は出来ないかもしれないが、日々感じ、考え、問いかけ、そして変わりたいと心から願う事で、意識は遺伝子情報をコントロールできると信じたいのもである。
2009.01.21
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芸術の語源は「テクネー」で、その昔、技術と芸術は一体だったそうだ。美しい技術を芸術と呼んだようである。(Wikipedia 参照)
さて、”魚をさばく”という技術について、考えてみる。
魚屋を営んでいるとすると、その店には必ず魚をさばける技術を持った人がいるだろう。そして、サバはさばけるがイカはさばけない、では商売にならないだろう。不特定多数の人の要望に応えるためには、ある一定のレベルの技術がどうしても必要である。
しかし現代、小売りの魚屋で「あら、今日はいいのがあるわねぇ。これ、3枚に下ろしてちょうだい」といって買い物をする人は少ない。スーパーですでにおろされてパック詰めされたものを買う事が多いだろう。まぁ、スーパーでもバックヤードには魚の専門職の人がいて、その日の仕入れにあわせて、また客層にあわせて、より売れるだろうと思われる形にして商品を並べているだろう。
そうなると、不特定多数の客にとっては、その店に魚がさばける技術があるかどうか?という重要性はほとんどないし、それによって店を選ぶ事もないだろう。という事は、実はバックヤードに専門職がいなくても、工場(場合によっては外国の工場)で大量に処理されパック詰めされたものを仕入れてきて、並べるだけでも魚屋は成立してしまう。
では、そこには技術はないのか?いや、大量生産の工場を作り、流通を確立する事もまた、技術であると、思う。ただニーズが違うので、それにあわせた別の技術を使っているだけである。前述の昔ながらの魚屋では、刺身用でも、煮付け用でも、焼き用でも、その場で客のニーズに応えて迅速に対応する事が、料金の中に入っているサービスであっただけである。
逆に、客の前で包丁さばきを見せる事も料理やサービスの一部として、その分値段が高い飲食店というのもまた、存在する。本当に生きのいい状態の魚を直接見せた上で、食せる形まで仕上げる技術を見せる事が、そこでは客のニーズなのである。
と、ここまでは、不特定多数を相手にする”商売”としての技術を考えた。では、特定少数を相手にした、利害関係の発生しない場合の技術はどうだろう?例えば家族の夕食のために魚をさばく母親。友人を招待してのパーティーなどで料理をする場合などである。
この場合、技術に対する明確な合格不合格の基準はなくなる。サバの3枚おろしはできてもイカの処理の仕方がわからない、という状態でも何の問題もない。また、下手な職人以上のウデがあるけど、月に1回くらいしかやらない、という状態も問題ない。
「うちのお母さん、魚料理はあんまり巧くないんだよなぁ〜」と家族がこぼすのもアリ。「あいつ、魚さばくのが巧くて、あいつのうちのパーティーに呼ばれるのが楽しみなんだよなぁ〜」と友人に期待されるのもアリなのである。
不特定多数相手の技術と、特定少数向けの技術の違いには、もう一つ大きな違いがある。不特定多数で利害関係がある場合、時間による技術のばらつきは許されない。むしろこの違いの技術の方が習得も難しければ、効果も大きく違う。
昔ながらの魚屋で、買う日によってさばき方が違っていては、客はつかない。客の目の前でさばいて見せる料亭の料理人に失敗は許されない。昼の客の前では成功したが夜の客の前で失敗するようでは、客の前に出れない。スーパーのパック詰めにしても、特売などの変化はあっても、定番の商品が日によってあったりなかったりするのでは、営業的に商売にならない。
特定少数相手の場合は、バラつきも失敗も問題ない。「お母さん、今日はとってもおいしいね」という日があっても良いし、「アイツ、二日酔いらしくて、今日のパーティーの料理はちょっと手抜きだね」という日があっても良い。
以上2種類の”技術”を考えてみたが、これは一般的にはプロとアマチュアの違い、と分ける事ができるだろう。プロ、という観点から見ると、どんなにすごい技術であっても、成功率が低く、毎日同じレベルを保てない技術は、さほど飛び抜けてすごい訳ではないが決してばらつきが出ず、常に同じ結果を出せる技術に劣る事になる。ただこれは、”プロとして営業利益を出す”という前提が最優先であるからである。その絶対前提がないなら、実は技術における優劣の差は、さほど意味がない事なのかもしれない。
さて、”美しい技術=芸術”だとしたら、どんな技術が美しい技術になるのだろうか?その基準は、人間一人一人の主観以外には、存在しないだろう、と思う。ある寿司屋の親父の手さばきがすばらしく、しかも旨いと感じたならそれは、美しい技術だろう。しかし、同じ店でも客によってはそう感じない人もいる。また、たいていの人は、自分の母親の得意料理を最高の味と感じるだろうが、それはまさしく、美しい技術であろう。そして他人にはその価値はわからないだろう。友人を招いてて料理を振る舞い、それを美味いと言われている自分自身、それもまた、本人にとって美しい技術であろう。そう考えると、“美しい技術”は、そこいらにいくらでも見つけられる。ようは、それを見つけることが出来る能力を養う事の方が大切なのかもしれない。
さらに踏み込んで、では、美しくない技術は無意味であろうか?これも答えはノーであろう。ある人にとって美しくなくても、他の人にとっては美しいかもしれない。それは異性の好みが千差万別であるかのごとくである。また、今日それは美しくない技術ではあるが、それの積み重ねで、将来とんでもなく美しいと評価する他人や自分が現れる可能性も否定できない。”美しい”の、万人に納得のゆく基準など、あろうはずがない。
一体技術とはなんなのか?私にも良くわかりません。しかし私は日々、技術を向上させる事に、多くの時間を割いています。仕事においてはそれは当たり前の事で、それができなければ、プロでいる資格はないと思っています。私はたまたま、いわゆる技術的な比重が大きい職種についていますが、仕事においては、すべてが技術と言えると思っています。電話の応対、接客、打ち合わせで発注者の意図を汲み取る事、人の手配....etc. どれも皆、技術です。お茶汲みだって技術でしょ?。個人が技術を提供する事で対価を得る事が仕事だと思っています。
そして私は、仕事以外でも、なぜか技術の向上に熱中します。なぜなのか?
なんとなく感じているのは、私の脳、もしくは心の奥底にあるものと、実際私が自分の目で見、耳で聞き、心で感じている現実世界との間に、ギャップを感じるからだと思います。それを埋めたいという欲求を満たすための手段として、とりあえず思いつく事が、技術の向上か?くらいしかないのでそうするのでしょう。それ以外の方法でもっとその隙間を埋める方法があれば、それをやるでしょう。そんな上手い方法があれば、誰かに教えてほしいと思うけど、私の中の”美しい”を他人に説明する事は、多分不可能だし、他人の心の中の”美しい”を理解する事も不可能でしょう。その不可能な”美しい”という感覚を伝える唯一の方法、それが”芸術”なのだろう、と思います。
つまり鶏が先か?卵が先か?と同じジレンマなわけでして、そこでもがいているのですが、”美しい技術”が、実はそこここに溢れている、という事実が希望となっています。
2008.12.29
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誠意と悪意は紙一重。
発言は、その主も同時に問われるから恐ろしい。
上は私の友人の名言也。語らずとも伝わるのが、音楽なのにね・・・・。
2008.12.22
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自由とは?
自由意志の根拠が、脳科学のベンジャミン・リベットの実験によって揺らいだ事は現実ではありますが、それでも自由はあると、私は信じています。
すべてのものから自由になりたい・・・・私が中学生の頃から現在に至るまでに思っている事であります。しかし自由とは何か?自由になるとはどういう事なのか?
一人暮らし、経済的自立、常識への反発 etc....。それらはどれも表面的な事象であって、自由と同義語ではありませんでした。
自由への第一歩は、自分の目で見、自分の頭で考え、自分で価値をはかり、自分で決断する事だと思います。そこに他人の目や、社会の一般常識が入った時点で自由は脅かされます。あくまで自分の心に正直に、自分だけの五感で感じる事。それが一番大事だと思います。
そして次には、自分のケツは自分で拭く事。自分で出した結論、自分で選んだ選択、その結果何が起ころうと、自分以外のせいにすることなく、すべてを自分で引き受ける事で、自由は達成されます。
人は皆結局、瞬間瞬間、実は自分で選択をしています。なのに、後になって社会のせい、環境のせい、親のせい、恋人のせい、友人のせい、他人の都合のせいにして、言い訳をして暮らしています。ベンジャミン・リベットの実験が真実だとすれば、人間の意思とは、起こった事象に後から言い訳を作り出しているだけである、という結論になりますので、だとすればそれは、仕方のない事なのかもしれません。
でも、自由を信じるならば、言い訳は、自分がそう選択したのだから・・・!、として生きる事が、私は幸せだと思っています。
2008.11.24
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人は、他の人との関わりの中で、自分を知り、自分の存在意義をはかる。これはおそらく正しいのでしょう・・・・。
自分の価値観に絶対的自信を持つ事は難しい。それゆえ、他の人からの賛同や賞賛を得る事で、かろうじて自信を保っている。これもおそらく正しいのでしょう・・・。社会、人類、人は一人では生きられない.....etc.ですからね。
自分の価値観や生き方に、Aさんは共感し賛同してくれた。でもBさんは全く否定的であった。よくある事です。
この時、社会に暮らす人間は、Aさんとの交流は深まり、Bさんとは疎遠になってゆく・・・、これが一般的な事。そして共感出来るもの同士でコミュニティーを形成してゆく・・・・。人類と言う種を考える上で、極めて正常な普通の事・・・・。
しかし、それでいいのか?という疑問が常に私にはあります。
Aさんとの関係とBさんとの関係で、自分自身の評価が違う。では、世の中みんながBさんの様な考えだったら、自分はどうなる?逆に世の中みんなAさんの様な人達ばかりだったら幸せなのか?”世の中みんな”とは言わず、多数少数でも良い。数の論理なのか?多数の共感を得る事が成功で、少数の賛同しかえられない事が失敗なのか?
自分のある部分を、ある人と比べれば自分は優秀だが、別な人と比べればはるかに劣る。ではその事に関する自分の存在意義とは何か?判断出来るのか?誰を対象にするかで、自分自身の根底ががらりと変わってしまうではないか?
「人は、他の人との関わりの中で、自分を知り、自分の存在意義をはかる・・」そんな不安定な日和見なものにすがって生きるのは、私はご免です。そういった比較相対的な判断ではなく、自分自身の絶対座標軸にそって自分を知り、自分の存在意義をはかりたい。
私も、一応真っ当な社会生活を送ってはおりますが、社会生活だけでは、私は生きてゆけません。
己の価値は己で決める。そのために必要な事をするため、日々生きているのだと思います。
副作用として「寂しい」という感覚を失うとか、同士と呼べる友はいるけど遊び友達がいなくなるとか言うのはありますが、私にとっては些細な事であります。
自分の怠慢を正当化する言い訳を必死でかき集めて、誤摩化しながら生きる事も出来るだろうけど、それで誤摩化せるのは他人だけ。自分をごまかす事は出来ない事に気づかずに生きていけますか?
人から賛同を得られなければ行動出来ない・・、仲間がいないと始められない・・、そんな事が本当にやりたい事ですか?
誰か他人のために全世界を敵に回す事は出来ないけれど、自分のためなら、たった一人で全世界を敵にまわせます。とことん利己的に生きてゆきたいと、いつも思っています。(完全に実行出来ている訳ではないけれど・・・)。
2008.11.06
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表現者として、ものを作る者として、いや、一人の人間として、自分自身の中に、なにかしら価値のあるモノが存在するのか?・・その強迫観念と戦う事は、避けられない事だし、そこと戦い、自分を信じることが出来るかどうか?で、生き方はがらりと変わる。
では、どうやって戦うか?方法は一つしかない。一言で言えば、練習を積み重ねる事。実際には、”練習”と言う言葉は、的確ではないが・・。
王貞治は、旅館の畳がすり切れるほど、宿舎でバットの素振りをしたという。それはもちろん、技術の向上という目的もあるだろうが、重要なのは、畳がすり切れるほど素振りを続けていられる”自分”を確認する事だと思う。それほど好きなのだ。ホームランを打ちたいのだ。そう感じる自分がいるのだ。
外に酒を飲みに出かけるよりも、女とセックスするよりも、バットの素振りをしている方が幸せを感じられる”自分”がそこにいる。そういう自分を毎日確認する事で、かろうじて自分を信じることが出来、試合で一つのボールに集中出来る・・・。
それが出来ないということは、それは、その事を心の底から好きではないと言う事、だったらさっさと止めて、時間を無駄にせず、本当に心の底から打ち込める新たなものをさがすべきである。
ま、以上は、単に私個人の見解ですが・・・・。
なので私は、毎日メトロノームと何時間もたわむれ、シャッターを切り続け、フィルムスキャナと腰が痛くなるまで格闘し、ギターを作り、映像を作り曲を作り・・、そんな毎日を過ごしたいし、過ごしています。ちょっと、やる事が多すぎるのが、難点ですが・・・・(^_^;)。
(本当は自分の中では、多岐にわたるそれらは、実は一つにつながっているのですけどね)
王貞治のようにギネス記録になるとか、イチローみたいにメジャーリグ記録を塗り替えるだとか、またはノーベル賞を取るとか、そういったもんは神様が用意してくれたほんのちょっとしたご褒美なだけであって、そんな付随した評価はどうでもいい事。
自分の中にあるモノを信じて生きるために、”それ”は必要な事であり、やめられない、止めたとたんに、多分私の人生は終わるでしょう・・・というと大げさか?否!
2008.10.10
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本番(とか、他人に見せる、評価してもらうため)の1日、もしくは数時間、数十分、火事場の馬鹿力を出し尽くし、もう力が残っていない・・・、とかいう状態になる事を、自分の限界に挑む事だと勘違いしている輩が多い事を、私は嘆きます。
自分の限界に挑戦し、そしてそこを超えて、更なる次の限界を見つける事とは、・・・
自分の理想の自分、なりたい自分、こうあるべきだと思う自分、まぁ何でも良いのだが、ビジョンがあるとする。進化したいと言う内なる欲求があるとする。(それが無い人には関係ない話ではあるが・・・)
そうしたら、そこに近づくために”やるべき事”とは何か?その考えつくだけの”やるべき事”を一つも漏らさず、すべてやり尽くす。それが自分の限界に近づく事と、私は考えます。
ちょっと考えれば”やるべき事”は、無限に思いつくはず。1〜2時間考えて、箇条書きで書き出してみれば、誰でも20や30は、すぐ出る事でしょう。それをすべて後悔の無いようにやり尽くす。つまり、日々、「やり残している事は無いか?」と自分に問いかけながら、24時間を送る365日。それが自分の限界に挑む事だと、私は思っています。
別に、修行僧のようなストイックな生活こそが正しいと言っている訳ではないので、その点は誤解無きよう・・。
ただ、ちゃんと考えてみれば、”やるべき事”をやらなかっただけの事なのに、現状を自分以外のものを原因であるとしたり、運が無いとか、才能が無いとか、タイミングが悪かったとか・・・、それでは頭が悪すぎます。
「自業自得」。これをちゃんと引き受ける覚悟とトレードで、自由が生まれ、自分の意志で自分を動かす。自分のケツは自分で拭くのです。「日々刻々、その都度選択をしてきたのは自分自身だ」と納得する所から、進化は始まると思っています。
そして、自分の限界がほんのちょっと広がったと自覚出来た時の喜びは、この地上のどんな事より素晴らしい事に思えます(まぁ、人生で数回くらいしか経験がありませんが・・・)。そして、喜びもつかの間。広がった限界の次には、新たな限界がすぐ現れます。たぶん、死ぬまで永遠に終わらない追っかけっこなのでしょう。「加藤さん、人生は、向上心のある限り、途中で終わるものなのよ」と、教えられたあの言葉通りなのでしょう。
人生の折り返しをとうに過ぎた身なのに、”やるべき事”が、年々増えてゆき、1分1秒の貴重さが身にしみる毎日。やるべき事を毎日ちゃんとやれてるか?不安でたまらない毎日。でも、限界が広がった時の快感、蜜の味(それはオリンピックの金メダル以上でしょう)を知ってしまったからには、やるしか無いのですねぇ・・・。
2008.08.23
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自分の過去を過大も過小もせずきちんと捉え、その中から何かしら、きらりと光る点を見つけ出し紡ぐ事が出来るかどうかは、才能によるのだろうか?いや、心のあり方次第だと思うのだが・・・。それが出来るかどうかで、人生は大きく変わるのだけどねぇ。
(光る点を紡ぐとは、目に見える実績や評価などの"肩書き"を積み上げる事ではなく、むしろその真逆の行為である事、誤解無き様・・)
ま、自分の理想や理念が無い人間には、必要の無い事だけど・・・(^_^;)。
「思い出をその記憶と分かつものは何もない。 そしてそれがどちらであれ、それが理解されるのは常に後になってからのことでしかない。」
2008.06.29
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精神医学系の本で読んだのだが、「愛する」の反対は「憎む」ではなく「無視」なのだそうだ。憎んだり反発したり嫌ったりする感情は「愛する」と表裏一体なんだそうな・・。無視できるか?というと・・・・・(^_^;) 心は正直だわなぁ。
ただまぁ、これはあくまでも医学的な分析であって、じゃぁ無視できない人をすべて愛しているか?というと、それはあり得ないねぇ。
記憶の変容は日常的に絶えず行われている。だからつらい事が有っても人はまた立ち直って生きてゆますね。つらい記憶や苦しい記憶がいつまでも生々しく蘇ってくる状態は、P.T.S.D.やらトラウマという、病気の状態で正常な脳の状態ではないとされます。
でも、病気して以来の記憶、特にここ2年ほどの記憶、変容させたくないんだけどなぁ・・・・。でもそれは、「脳」次第。か、(^_^;)
2008.06.08
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「忘れねばこそ思い出さず候」と、バトー。
マトリクスの裂け目の向こうへ行ってしまった、守護天使なる素子は、彼の思いをすべて承知の上、あえて林の中に。
イノセンスがラブストーリーだ、というのが、最近やっと理解できてきた。(^_^;)
2008.06.07
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「自分自身の道を迷って歩いている子供や青年の方が、
他人の道を間違いなく歩いている人々よりも好ましく思う。」(ゲーテ)
・・・たしかに!ジョブズの字幕付きスピーチと基本的には、同じ事をいっている。
でも、一生迷ってる訳にもいかないっかぁ?いや、47歳になっても迷ってることはいっぱいあるなぁ。でも他人の道だけは歩いてこなかったという自負はある・・?つもり・・・?少々自信ナシ(^_^;)。
やりたい事はまだまだ山ほどある。時間が残り少ないので、そろそろ優先順位をつけねばならぬが・・・、これがまた悩ましい・・・。
2008.05.25
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こちら側に来れる可能性があると思っていたのだが、どうやら節穴だったのは私の目の方だったらしい・・・・(ーー;)。
「確立した自我を持ち、自らの意思と判断で行動できるものを人間と呼ぶ・・(イノセンスより)」
2008.05.17
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フォークが苦手とか嫌いとか、おっしゃる方がよくいらっしゃいますが、そういう輩に限って古いハードロックが好きってなパターンが、往々にしてあります。しかし私的には、目くそ鼻くそ、どっちも懐メロじゃん、好き嫌いを主張する事に何の意味があるのか?・・と思う訳であります。
美空ひばりはいいけど江利チエミはダメ、と言ってるようなもの・・・・・(決してこのお二人が目くそ鼻くそと言ってる訳ではありませんので誤解無きよう・・)この例えはまずいか?確かに大きく違うと言えば違うのですが、お二人とも2006年を体現していないという意味でございます。三波春夫と村田英雄でも・・ジョンレノンとポールマッカートニーでも(かたっぽは生きてるかぁ)・・・・ん〜、上手い例えが見つからん。(ーー;)
確かに私も「フォークなんてかっこわるい、ハードロックこそ最高の音楽さ」という十代を過ごして来たクチですが、それはその時代であったからであって、今それを言っても、ちょっとずれてるかな?・・と。一応私の中学時代には、Led ZeppelinもDeep Purpleもリアルタイムで存在しておりました。でも今、Led Zeppelinのコピーバンドと、ORANGE RANGEのコピーバンド、どちらがやりたい?と聞かれたら、私は迷わず ORANGE RANGE を選びます。なんならKAT-TUNやmihimaru GTだっていいぞぉ!(Zeppelin,Purple,TOTO,Jimi なんかやるよりは、よっぽど恥ずかしくない・・)
いや、別に懐メロが悪いと言っている訳ではないですよ。私も昔好きだったアーティストのCDを聞けば、それは楽しいし、古いものの中から得るものありますし、後世に残すべき名曲というのもあるでしょう。でもステージに立つとなると、話は別です。私にとってカッコいいものとは、やはり"今"この時(執筆時は2006年9月)に生きている事を、ちゃんと体現化しているものなのであります。例えジャニーズ系アイドルだって、立派に2006年で最前線を生きてはいるでしょ。
話の切り口を変更・・・(^_^;)。オヤジバンドブームでございますねぇ。若い頃バンドにかぶれた。就職とともに音楽からは離れたが、歳をとり、お金に余裕もできた。子供も手のかからない年齢になった。不況で残業は無く、時間にも余裕がある。どれ、昔を思い出してバンドでももう一回やってみるか・・・。いや、それは悪い事ではないです。音楽の裾野が広がる事は、年齢に関係なく、良い事と思われます。
でもね。昔楽しかった事をただなぞるだけなのに、ライブをやると言っては、友人達からチケット代と称して小額ながらお金をいただく。それでいいのか?若い頃は稚拙でも無知でも、なにがしかの内なる情熱にほだされて、その時その時の時代と自分の思いをぶつけていたはずではなかったのか?だから楽しかったのではないのか?若い頃買えなかった高〜い楽器を買う金があったら、入場無料で軽食でも用意してご招待パーティーにした方がいいんでないの?
と書くと「んじゃ、お前はどうなんだ?時々バンドに混じって何やらやっておるではないか!オールマンのコピーなんかまでやっておるぞぉ!」というご意見が当然かえってきますねぇ。ハイ、その通りで弁明の余地はございません。ただ苦しい言い訳をすると、友人にチケット代をいただいた事はございません。全部自腹でただで配っております(とはいっても自分の割当分だけなので、言い訳としても弱いですなぁ)。ではなぜやっているか?非常に自分本位でわがままで、誘ってくれた人にも、見にきてくれた人にも申し訳ない理由でなのですが、正直に言うと"リハビリ"です。20年ほど、人前で演奏するという事から離れていたため、自分の実力もよく測れなくなっておりまして、果たして自分は人前に出て演奏する価値があるのか?ちゃんと情熱とオーラを発信する事が出来ているのか?確認している所でございます。ただ誤解されないように書いておきますが、参加したバンドでは、その時その時、そのバンドにとってよかれと思う事に、精一杯ベストを尽くしているつもりではあります。お許しください。
さて、"リハビリしている"って事は、その後がある訳でして・・・(^_^;)。実は春先から密かに活動していたりします。(活動と言えるレベルかどうかは・・?だが)ただ、計画も曲も、かなり無謀なので、日の目を見ないまま消え行く可能性が無いとは言えません。ま、近々にネット上で発表予定ですので、お楽しみに・・・
・・・って、本音はただの宣伝かぁ?オイオイ(^_^;)
テレビからの情報ですが、男の子がエレキギターで初めて練習する曲の第1位は、いまだに"Smoke on the Water"だそうです。いやはや、伝統芸能の域ですなぁ。小学校唱歌になる日も来るか?
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ブログをはじめたら、そっちばっかり書き込みをしているので、このページとのすみ分けが難しくなってしまってますが、たまにはこちらにも書き込みましょうか・・・お題は「CCCD」で!
CDの売り上げが落ちている。その原因は、違法ファイル交換システムや、CD-Rの普及による違法なコピーだ!・・というわけで、「CDをパソコンに取り込めなくしてしまえば良いに違い無い」ってなわけで始まったコピーコントロールCD(以下CCCD)ですが、ここにきて、「エイベックス」「ソニーミュージックエンターテイメント」があいつで、CCCDを見直すと方向転換しましたねぇ。
理由は、「iPodなど携帯型デジタル音楽プレーヤーが人気を集める中、コピー禁止機能があると取り込めないことから、顧客離れにつながりかねない」という事らしい。(ちなみに、私が買った数枚のCCCDは、どれもMacでは取込み可能だったが・・)
ファイル交換ソフト利用者の取締りが強化され、それを利用するユーザーが漸減傾向にある、という報告もあり、それも一因ともされているが、実は本丸は、これから必ず大きな波となって訪れる、音楽のダウンロード販売にあると思われます。
今、ユーザーが音楽を楽しむライフスタイルって、CDから直に再生するよりも他のメディア、携帯音楽プレーヤーやカーステレオ(MD、カセット等も含む)に編集してから聞く割り合いが多いのではないだろうか?となると、その音源の入手方法は、別にCDでなくてもよい。もっと積極的に言うなら、同じものが安く手に入るならネットからのダウンロードの方が良い!しかもアルバム全部を買わなくても、視聴して気に入ったものだけバラで買った方が良い。という所に落ち着くのは当然の結果では無いだろうか?私も音楽に関わるものの端くれとしては、アルバムのバラ売りは寂しいものもあるが、消費者の立場にたてば、結論はおのずと見えてくる。
となると、CCCDなんてのは単なる枝葉の問題であって、音楽業界は、ダウンロード販売でもちゃんと利益の出るシステムづくり、に知恵を絞るべきではないだろう。
個人的に私は、アップルのiTunes Music Storeの日本版が早くできる事を望んでいます、ハイ。
2004.10.10
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内蔵用ATAPのDVD-+R RW/CD-R RWのドライブ、マックで言うところのスーパードライブを買いました。DVD-R8倍速、CD-R24倍速で、お値段なんと!¥13,000!いや〜安くなりましたねぇ。どうりで、eMacがあのお値段で出せる訳だわ。
このドライブは、今セカンドマシンとなっている、PowerMacG4-400に取り付け、焼き焼きマシンとなっています。OSX10,3以降では、純正ドライブとして認識され、iTunesでもDiskBurnerでもちゃんと焼けます。8倍速のメディアはまだちょっとお高めなんで、4倍速のメディアを使っていますが、それでも速い速い!こうなると、G4-400(AGP)への改造欲が沸々とわいてきて・・・CPUカードや、ATA133カードあたりにも興味が出てきていますが、もう少しガマンガマン、かな?
2004.05.09
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YaHoo!BBだけは、死んでも入らないぞ!
とにかく勧誘の電話がしょっちゅうかかってくるのですよ。それも全部非通知で。ここ半年くらいの間、月に2〜3回はかかってきます。うちはケーブルテレビを利用しているので、ADSL関係には興味も必要もないので、その度に断っていたのですが、それでも何度も同じ会社からかかってきます。「YaHoo!BBの代理店」という会社はいくつかあるようで、うちには2〜3社から電話がかかってくるのですが、特にひどいのが"ネクシーズ"という会社。まず、会社名を名のらない。もう何度もかかってきてるよ、と言っても「いや〜うちは初めてお電話しましたよ」などとすっとぼけています。さすがに私もキレて、「あんたじゃ話にならないから、上司を出せ。非通知でかけてきてるから、そっちの電話番号を教えろ」と言ったら、「少々お待ちください」といって、電話を保留に。数分待たされていたら、そのまま電話を切りやがったぞ。
最近、英語圏からのスパムメールも増えていて嫌な感じですが、メールならまだ、デリートキーを押すだけですみますが、電話となると、こっちの時間をも束縛されるし、仕事中にこんな電話で嫌な思いをすると、こっちのテンションも下がります。こういう迷惑電話って、消費者センターとかにでも相談すればいいのかしらん?
04.04.09 |
みなさま、あけましておめでとうございます。今年も亀の歩みの如く、ちびちびとした更新でやって参りますが、よろしくお願いします。
さてさて、今年発売のモデルからMacはOS9での起動ができなくなる、つーことで、年末に新しいMacを買ってしまいましたぁ、(^-^)。G4の1.25Gdualで、ございます。仕事ではまだまだOS9の方が効率良く働けるので、主にはOS9で働いてもらうことになるマシンでありますが、せっかくのdualマシンですからOSXの方が、そのパフォーマンスは良いわけでして、OSXの方もちょこちょこと仕込んで、いろいろ環境を整えてると、けっこうOSXでも仕事が出来そうな気配もしてきたりして・・・・。今の所の問題は、うちのプリンターが全滅なことと、FAXソフトの使い勝手が、イマイチなことが大きなネックになっています。その他、細かなユーティリティーソフトの問題もありますが、メインのLOGIC AUDIOに関しては、OSXで問題なく快適に使えそうな雰囲気であります。OS Xに完全以降の際には、丸加屋徒然日記のコーナーででも、またご報告したいと思っておりますので、よろしくね。
2003.1.3
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下の方に"2001.12.9"に書いた、自律神経失調症の話題のところでも書いたことですが・・・・
「仕事のことは気にせず、ゆっくり休んで下さいね」等と言われると、その人のためには、無理してでも一生懸命がんばって働く。
自分の都合のことだけで、無理してでも働かせようとするってなヤツのためには、さっぱり働く気がしなくなる・・・。
という、私は「あまのじゃく」な性格です。
そこの所、解ってるかなぁ〜?・・・
だからぁ、私を働かせようと思ったらぁ・・・・>だれに?とでもなく・・・
まぁ、単に言葉じゃなくて、その人の人間としての度量の大きさとか、人格の偉大さとかは、言葉以外の部分から、皮膚感覚で、推して知るべしなのではあるのですが、私の性格をそこまで解って、意図的に私を操縦しようと企むくらいのしたたかさがあるのなら、それはそれで一つ、敬服しないでもないなぁ、とも思える気がするものなんですがねぇ。
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エラいぞ!阪神タイガース
なんてかっこ悪い「胴上げ」だこと・・・オホホ、>巨人
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どうせ身体が言う事をきかないし、御盆休みはヒマこくな〜と思っていたら、近所の中古ゲームソフト屋で「千と千尋の神隠し」のDVDが中古で出ていたので買ってみました。いや〜つまらない映画だワ、これは・・・。なんであんなに興行収入があったのやら???お口直しにすぐさま「オネアミスの翼」のDVDを見てしまいましたヨ。やっぱGHIBLIよりGAINAXだすなぁ〜。いや宮崎駿作品でもラピュタやカリオストロの城は好きですけどね。(^_^;)
2002.08.15
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毎度ぱっとしない話題で申し訳ないですが・・・私の体調の話しです。ハイ。
5月のあたま頃に毎度のギックリ腰をやったのですが、今回は一ヶ月たってもさっぱり良くならない!ずっと通っていた整体も効果なしで、新しく針に通いはじめてなんぼかは回復してきたのですが、まだまだ腰痛ベルトは手放せないし、杖をつきながら歩いていたりして・・・。ってなわけで、病院嫌いの私もついに西洋医学の助けを借りる決心をし、MRIの検査を受けました(レントゲンは今年になってからもとった事があったのですが、その時は異常無しでした)。結果は「腰椎椎間板変性症」という診断。たしかに見せてもらったMRIの画像では椎間板が変色して、やや潰れぎみになっていました。はみだしてる部分は無いようなのでヘルニアには、いたっていないとの事。で、治療法は?と聞くと、結局、痛みをとめる対処療法しか無いそうな・・・(・・;)。つーわけで、針と整形外科での電気治療の併用で治していくしか無いようで、自律神経失調症で通っている心療内科とあわせると、ほぼ毎日どこかの病院に通っていると言う日々を送っております。あ〜厄年ってホントにあるんだねぇ〜。
2002.08.04
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AppleがEMAGICを買収!だそうで、永年のMac&Logicユーザーの私的には、喜んでいいのかな?でも不安もちょっぴりかな?。いまのAppleはOS Xまっしぐらですから、LogicのOS X版は音楽ソフトの中では、OS X機能の最先端をまっしぐらに走るであろう事は予測できますし、それはそれでたいへん喜ばしい事なのですが、今のうちの環境はまだまだOS9環境から脱却できない状況なのよねぇ〜。それに、ついにディスコンになってしまったAudioWerk8(サウンドカード)のサポートとか、ちゃんと続くのか?ってな不安もなきにしもあらず・・・。でもこうなった以上、やっぱもうMac&Logicとは死ぬまでつきあうしか無いぞー!と、決意も新たに踏み絵を踏まされたような気分でございますなぁ。
さぁ、新しいMacも買わなきゃ無いし、Logicもはやくバージョンアップしなくっちゃ!・・・・って、あ〜Appleに注ぎ込んでいるばかりのワタシでございます。
2002.07.02
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皆様、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたしますね。
例年ですと、年末年始は実家に帰って過ごすので、ネットからは切り離された環境になるのですが、今年は体調が悪いこともあって、自分の家でひとりでの〜んびり、ダラダラと過ごしております。なわけで、元旦からこうやってホームページの更新なんかもしちゃってます。去年は前々厄年のせいか、とにかく体がいうことを聞かなくて、やりたいことがさっぱりやれない年でしたので、今年はなんとかとりあえず普通に暮らしてゆけるだけの健康を、ぜひ手に入れたいものでございますなぁ。
お〜い、どっかで売ってないか〜い?「健康」!
2002.1.1
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